警察の話をしていたらsakstyleが壊れた件

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今から思いついたことをだらだら書くことにする。さっきまで、「警察の発砲」に関する kanose の記事とか、秋葉原で十徳ナイフ持ってたら2時間職質された記事とか読んでた。犯行予告話とかも含めて、まあ警察の話
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発砲に関する記事のブクマコメントで、警察は集団で能力を発揮するものだから、個人の能力(この場合射撃能力)を期待するのはよくない、というのがあった。そう、警察は、個人ではなく集団。このことを理解していない人は多い気がする
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つまり、警察官個人を見れば、立派で優秀な人もいるかもしれない。でも、もちろんそれほど立派でも優秀でもない人もいて、それらが集まって「警察」となっている。
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だから警察は、決して「正義の味方」にはなりえない。そしてそれゆえに、「犯行予告は悪いこと」「ナイフ持っている方が悪い」そして「悪い」ことは取り締まられる、ということには肯んじられない。
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正しさには、2種類ある。一つは、理念・目的の正しさ、もう一つは手段・手続の正しさ。僕は基本的に、集団には後者の正しさしか守ることができないと思う。手続を共有するのは簡単だが、理念を共有するのは困難だから、というシンプルな理由による。
http://twitter.com/sakstyle/statuses/835114710

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手続の正しさだけ守るという姿は、いわゆる「お役所仕事」と呼ばれ批判される。でも、「お役所仕事」であることはおそらくとても大事だ。集団が「お役所仕事」を逸脱するのは、結構危険なことだと思っている。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/835115214

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予告 in に対する批判として、アイロニーや人文知が理解できてない奴が多いというのが僕のタイムラインでは流れた。僕としては、アイロニーや人文知なんかなくたって、それくらい分かるだろう、と思うんだけど。
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手続(の正しさ)といったものに耐えられなくなって、理念(の正しさ)を求める、訴えるパターンが最近多いような気がする。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/835116461

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踊る大捜査線』が面白いのは、青島個人は「正義の味方」を目指すが、警察という集団は「正義の味方」ではなかったというところにある。劇場版がつまらないのは、湾岸署に限るとはいえ、警察が「正義の味方」になっちゃうこと。
http://twitter.com/sakstyle/statuses/835116915

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踊るの劇場版2で、理念の正しさが手続の正しさを優先してしまう。室井さんがその全責任を負う、ということにして。(集団が「理念」を優先させてしまうことの危険性は、こういうところにもある。結局、室井という有能な人間がいないとこの体制は維持できない) http://twitter.com/sakstyle/statuses/835118053

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「手続」によって、警察がその「理念」を達成できずうまくいってないのは確かかもしれないが、それを解決するには、「手続」によって「手続」を変えるしかないのであって、「手続」を無視していいわけではない
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『踊る』劇場版2と同様に、集団の行動原理として理念が手続を優先してしまう作品としては、『攻殻機動隊SAC』がある。しかし、それでもこちらが面白いのは、公安9課がそもそもそういうセクションとして作られているという設定があるから。
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公安9課は、最初から「手続」によって組織された集団ではなく、課長という個人の「理念」によって組織された集団で、少数精鋭だからこそ「理念」だけで維持できている。
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メンバーが少数でも精鋭でもない「集団」を維持するためには、「理念」はあんまり役に立たない。「手続」が必要となる。
http://twitter.com/sakstyle/statuses/835119695

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しかし、「手続」は煩雑だし、時に「理念」を妨げることすらある。そのせいか何なのか、「理念」を優先させよ、という世の声(?)がやけに多い気がする。(ああ、死刑問題とかもそうかも)
http://twitter.com/sakstyle/statuses/835120133

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個人が持っている、正義感とかの「理念」が、集団においても当然成立するものだと思っているのかもしれない。個人と集団が一体化しちゃってるような感覚なのかなあ
http://twitter.com/sakstyle/statuses/835120812

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警察という具体例を使ったけど、国家でも同じ。王政であれば、国王個人の理念と国家の理念が一致するようになっているからいいんだけど、民主制はそうはならない。主権者個人の理念は、民主国家という集団の行動原理とはなりえない。
http://twitter.com/sakstyle/statuses/835121483

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現実的な解として、議会制民主主義、代議制というものがある。これは、 Representation なので、正確な形で「理念」を present できない。これは本当に、民主的なのかという問題が出てくる。そこで、治者と被治者の同一化可能性みたいなものが出てくる http://twitter.com/sakstyle/statuses/835122437

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そういう同一化への欲望(?)の受け皿として、かつては共産主義ファシズムがあったとして、現代はインターネットがその受け皿となっているのかもしれない。そして、自分の http://twitter.com/sakstyle/statuses/835122987

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そして、自分の「理念」と決して同一化されることのない、問題に脊髄反射で憤る(「早く殺せよ」みたいな感じで) http://twitter.com/sakstyle/statuses/835123263

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そもそも自分は、個人と集団の違いやそのアイデンティファイのされ方といったことには興味があるから、こういうことを人文知のタームを交えてだらだら書くのは面白いが、一方で、何でこんな当たり前のこと懸命に書いてるの、俺、って気分にもなる。
http://twitter.com/sakstyle/statuses/835124709

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「手続」を全部なくして「理念」だけで行動可能になったら、それって例外状態かもね。「 の力」
http://twitter.com/sakstyle/statuses/835128920

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「理念」と「手続」を、「直接性」と「間接性」に翻訳してもよい(「間接性」ゆえに「手続」を要する / 「直接性」や「理念」を欲する)。「内包」と「外延」にも、頑張れば翻訳できるかもね。
http://twitter.com/sakstyle/statuses/835133425

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「直接性」「理念」「内包」を人は求めたがるものだがそれは断念しなければならない。という形に整理できると、『筑波批評2007』の虐殺器官論と『2008』の公共性論が、同じものになる。
http://twitter.com/sakstyle/statuses/835133906

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何このオペレーター? http://twitter.com/sakstyle/statuses/835144173

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天子さま天子さま http://twitter.com/sakstyle/statuses/835145300

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今日から、ユフィから天子さまに転向しよう
http://twitter.com/sakstyle/statuses/835152989

rakutensai:

sakが真面目な話してたのにいきなり壊れやがったww http://twitter.com/rakutensai/statuses/835148473