批評と普遍性
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「感性が阻害されない」の面白いところは、まるで道具なしで発揮される感性が優れたものであるというナルちゃんな前提が含まれるところだ。「感性が高められる」ならまだしも。 http://twitter.com/tricken/statuses/896130902
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道具誉めをダシにして自分を誉めるのは危険だよ、ということか。 http://twitter.com/tricken/statuses/896131409
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命題「批評はあらゆる人に必要だ」は、実は命題ですらない。必要云々は価値命題である。しかもアフリカの部族の儀式や口承文芸に批評が必要とも思えない (別の知性、別のシステムが働いているはず)。 http://twitter.com/tricken/statuses/896134680
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批評というのは礼拝的価値がなくなって芸術が市民芸術になっていった時代から、芸術の価値を決定するために必要になった社会的行為であり、したがって宗教的な普遍概念がその共同体の美をも定義しているなら批評は必要ないのではないか。 http://twitter.com/tricken/statuses/896137728
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批評家の誕生ってまさにヨーロッパ近代の市民芸術が可能になった時代に起きたんだろうし、それ以前の批評は宗教的美とない交ぜになっていただろう。その地域性を無視して批評を普遍というのは誤り。 http://twitter.com/tricken/statuses/896140639
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哲学が普遍だというのも、ギリシャ・ローマ・キリスト教を近代以降に持ち越したローカルな一思想ですよね。理性を前提にすれば確かにそうかもしれないが。デファクトではあるが唯一ではない。 http://twitter.com/tricken/statuses/896145585
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哲学が普遍ならなぜアフリカやアジアに同様の思想が生まれなかったのか。気の哲学や精霊崇拝はなぜ観念論哲学を(これだって普遍とはいいがたいが)産み出さなかったのか。哲学が普遍ならそれはなぜ他の思想と違い普遍にアクセスできたのか。よくわからんよ。 http://twitter.com/tricken/statuses/896151768
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というわけで、論理を尊びつつ善と美を称賛するというギリシャ・ヨーロッパ的伝統に批評が従属しているのだとすれば、それが普遍にもアクセスしているという傲慢は一旦据え置かなければならない。 http://twitter.com/tricken/statuses/896154668
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一般と言うとき、それは必ずしも普遍を意味しない。一般は「個人にとどまらない」ということで、普遍まで踏み込まない。一般人と言った時にアフリカの部族を持ち出すのは卑怯だが、普遍を語る人にアフリカの部族を持ち出すのは失礼にあたらない。 http://twitter.com/tricken/statuses/896158258
Anklang
@tricken カトリックの一神教思想を土台にした近代理性の思考が、結局のところは科学の実用的なレベルで高い一般性を持ちえたからかしら。 http://twitter.com/Anklang/statuses/896156045
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@Anklang 自然科学の実用性が説得力を持ったのは強いでしょうね。しかしそれは真善美であれば単に真(事実)の領域であって、善と美にも有効かどうかは相変わらず不明なんだよなあと思います。 http://twitter.com/tricken/statuses/896159719
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キリスト教やイスラム教の凄いところは、それが普遍であるがゆえに思想の普及に迷わないことだ。批評にはそんな意味での普遍性はないんじゃないか? http://twitter.com/tricken/statuses/896163497
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ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で、記号論理学という真の領域からいかに善と美の領域を語りうるところまで行けるかを試した。結果、「語り得ないこと」は残った。後期では真すら揺らいだ。 http://twitter.com/tricken/statuses/896166023
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とゆーわけで、一般性の確保を論じた人に「十字軍だ」という馬鹿は爆発していただきたい。批評以前に一神教なめんな。 http://twitter.com/tricken/statuses/896168446