「データでガツン」論争・補遺

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私が「史料が客観的データになりにくいからデータでガツンがしにくい」って言い出して、それはそれであるんだけれど、それと一緒に、 @sakstyle さんの「新史料の発見はデータでガツンにならないの?」にはもう一つ他の形で答えなきゃいけなかったんじゃないのか、とか。 http://twitter.com/_Ag_/statuses/847230120

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「新史料は発見しようと思って発見できるものじゃない」 http://twitter.com/_Ag_/statuses/847231593

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つまり、「新史料の発見」に限って言うなら、歴史学はデータを自分でそろえることが難しい。仮説をもとに「こんなデータないんかなー」と思っても、そのデータを得る術がない場合がある。 http://twitter.com/_Ag_/statuses/847233151

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だから日常的な研究の中で「新史料発見」による「データでガツン」で自説を補強することって難しいんじゃないか、という。 http://twitter.com/_Ag_/statuses/847234403

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日常的な研究でデータでガツンだとしたら話が戻るけどこういう系になるんだと思う。→ http://tinyurl.com/5chlfm http://twitter.com/_Ag_/statuses/847241055

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あとは @min2fly さんが言っていた計量文献学とか、そういう系。あるいは材質がどうのとか分析し始める美術史系?(っていってもこれもすでにある作品は分析しつくされているし、現物が手元にあって解析可能な人ってほとんどいない) http://twitter.com/_Ag_/statuses/847256406

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kouteika

「データでガツン」論争。これは面白い。昨日の「主体思想」の話もそうだったけれども、こうした楽しい話を拝見できるのが、ツイッターの醍醐味かと思う。生で見られなかったのが、残念だけれども(今朝がたやっていたのかな。)。 http://twitter.com/kouteika/statuses/847664764

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また勝手に雑感を述べると、歴史学で、「データでガツン」が難しいのは、そもそも「歴史学」という営みが、他ならぬ「データでガツン」―言葉をかえれば、「ある素材が、無媒介に結論を導いてしまうこと」―を嫌って、これをいかに防ぐかの工夫の一つであったことによると思う。 http://twitter.com/kouteika/statuses/847665014

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もちろん、現代の歴史学は、こうした意味での「歴史学」が、「データにものを言わせる」別の系譜(J.G.Aポーコックのいう“erudition”。博物学、考古学、年代学、少し転調して社会学、人類学など。)と合流して成立しており、問題は厄介。 http://twitter.com/kouteika/statuses/847665672

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そこで、「データにものを言わせる諸学」が、時として歴史学の本体を乗っ取ってしまうことがある。しかし、「データにものを言わせる」という発想は、本来の「歴史学」からすると、正嫡ではない。「補助学科」という呼称には、「婢」のニュアンスがつきまとう(「歴史学」の側はそう考えたい)。 http://twitter.com/kouteika/statuses/847666097

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いずれにせよ、「歴史学」における「ガツン」は、証拠の吟味(「データで」)とは異なった局面で示されることになるのではないか。 http://twitter.com/kouteika/statuses/847667949

kouteika

「ある素材が、無媒介に結論を導いてしまうこと」を警戒する「歴史学」のメンタリティーを垣間見ることが出来る、手近な好例として、加藤陽子満州事変から日中戦争へ』(岩波新書 2007)における、「推断させること」を巡る叙述が挙げられる。 http://twitter.com/kouteika/statuses/847672811